川上未映子ヘヴンを読んで、理解と理性

いじめる側の論理といじめられる側の論理を巧みに作者が操っていて、善悪とは結局なにか、所詮世の中は弱肉強食なのかと読み手を混乱させながら進む物語です。
作中でいじめられる主人公がいじめる側を問い詰めたときに、いじめる側は問いに対してさりげなく論点をずらして答えていて狡猾さが読み取れます。
あくまでも正攻法で問い詰める、いじめられる側に対して、嫌なら自分で自分の身を守れと突き放す、いじめる側の論理は身勝手極まりないと思いました。
しかし、この話は中学生同士の話、いついじめる側といじめられる側が入れ替わるかもわからない、強者としていじめる側にも、上手く立ち回らないと自分がいじめられる側に回ってしまうという怯えが見え隠れしています。
その怯えが論点ずらしや嫌なら自分の身は自分で守れという捨て台詞に繋がっているのでしょう。
作中で主人公はエピローグ直前までは逃げない人として描かれています。
そして、極端な反撃を考えるまで、ひたすら無抵抗を貫きます。
反撃を考えるシーンが極端過ぎて現実離れしています。
いじめがエスカレートする前に反撃を試みたり想像する場面がほとんどないのです。
ここにこの作品の不自然さが現れていて、私はそれが作者の仕掛けではないかと思います。
実際のいじめ問題でも中途半端な反撃は余計にいじめられる、逃げれば完全降伏したことになるなど色々な考え方があると思いますが、理不尽を受け入れ続ける主人公があまりにも不自然です。多動性障害 子供 治る
この話は小説で、フィクションです。
物語の読みごたえを考えるとリアリティはさほど重用でないかもしれません。
必要以上に無抵抗を貫く主人公は愚直で、そういう愚直なところをいじめる側に見抜かれて漬け込まれるから、早くいじめから逃げてほしいと読み手をやきもきさせます。
リアリティを横に置いた、少し強引な設定の中に登場人物を押し込むことで、主人公の危機に読み手が共感しやすい仕掛けになっていると思います。
人が社会で生きていく上での社交辞令や人間関係における暗黙の了解について、「これはお約束のようなもので当たり前のことだろう?」と主人公がいじめる側に問いかけても理解を得られない絶望を味わいます。
暗黙の了解とは、最低限の倫理観、道徳心といったものです。
同じ学校に通っているからといって必要以上に仲良くする必要はないと思います。
気が合う合わないは誰にでもあります。
その人の関係性と場合によっては挨拶や連絡事項以外話さないこともあるでしょう。
しかし、人として最低限の、とりあえずそっとしておくということすらいじめる側はできないのです。
作中でいじめる側の論理として、偶然のタイミングでいじめやすい人間がいて、いじめたいという欲求があったからと、いじめる側は偶然と欲求を強調しています。
滑らかでよどみない、もっともらしい論調で偶然と欲求を語られると読み進めるうちに反論が難しく考え込んでしまいます。
しかし、人間は欲求を理性で抑え、理性を手にしたから人間として動物とは異なる地位を築き、文明社会を作り上げてきたのです。
よくよく読み返して見ると、いじめる側の論理は本能的に欲求のまま動いている身勝手な動物のようで、共感出来る部分が少ないのです。
そして、エピローグまで読み進むと、いじめる側の言い分のおかしさをいくら熱く語っても、わかりあえないまま決裂していく人間関係があるという無情な事実を突きつけられます。
なぜそんなにむごいことができるのか、そう問いかけても、もっとむごいことが世の中にはごまんとあるだろう、戦争なんかと比べたらかわいいものさと論点をずらして反論されたまま終わるような、後味の悪い読後感です。
そして、この後味の悪さは、ひょっとすると自分の心の中にも同じようなむごさ、冷淡さがあって、ただそれを理性で抑えるか抑えないかの違いでしかない、紙一重だという危機感があるからだと考えました。
心に余裕があるから紙一重でも理性が働き抑えられ、心に余裕がなければ、追いつめられたら欲求にしたがってもしかしたらむごいことをしてしまうかもしれないという恐ろしさを感じました。